友達がいない人たちの物語─「MONKEY」vol.11「ともだちがいない!」
以前、iPhoneのトラブルがあり、
Apple IDをリセットしようとしたけど、どうしてもできなかった。
しょうがないので、Appleサポートに電話したところ、
あらかじめ設定した「秘密の質問」に答えてくださいとのこと。
「子どものころに住んでいた街」─ これは答えられた。
「はじめて出会った芸能人」─ 一体、誰なんだ。覚えていない。
そして最後の質問が、
「10代のころの親友は?」。
これには頭の中が真っ白になった。
友だちですらそんなにいないのに「親友」なんてハードルが高すぎる。
一体、誰に設定したんだ、過去の私よ。
色々な名前が頭に浮かんでは消えていく。
あの子は友だちであって、親友というほどではない。
あの子とは親友と言っていいぐらいのレベルだったが、
すれ違いから関係は消滅してしまった。
うーん、一体誰なんだろう。
意を決して言った答えに、
Appleの人は無情にも「違います」と。
同情の余地は全くなかった。
この出来事から改めて、
私には友だちがいないことを突きつけられ、
そういえば親戚以外の結婚式にもほとんど出席したことがないことも、
友だちがいない証拠のひとつだ。
そんなことを考えていたとき、私の働いている書店でみつけたのが、
翻訳家の柴田元幸さんが編集長をしている「MONKEY」。
特集は「ともだちがいない!」。
今の私にぴったりだと思って読んでみることにした。
冒頭の「猿のあいさつ」で柴田さんはこんなことを書いている。
何年か前に都甲孝治氏とアメリカ文学について
対談したとき、どういう作品に惹かれるかという
話題になって、マイノリティの文学とか、
抑圧された人々の文学とか、
そういうまとめ方はどうも、お勉強っぽくていやだなぁ、
という話になり、いろいろ喋っているうちに、
要するに、二人とも
「ともだちのいない人たちの文学」に惹かれるんだ
ということがわかりました。
この本は「ともだちがいない人たちの物語」がたくさん出てくるが、
「友だちがいなくったっていいじゃない」と慰めるわけでもなく、
「友だちをつくれ」とも言わない。
日々が充実していないこともないが、なんか孤独。
そんな距離感が心地いい。
文学や音楽やら絵画やらの作品において、
「友だちがたくさんいそうな人がつくったもの」と
「友だちが全然いなさそうな人がつくったもの」の
2種類に分けるなら、私は断然、後者に惹かれる。
それは、きっと私も友だちがいないからで、
何かが共鳴しているのだと思う。