自分が食べたいものを食べる自由─稲垣えみ子『もうレシピ本はいらない』
前回に引き続き、またレシピ本になってしまった。
どうやら私は「昔の味」が知りたくてしょうがないらしい。
稲垣えみ子さん、都会にいながらにして電気を全く使わない生活をしている。
電気がないということは、必然的に冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器などが使えないということだ。
一体どうやって料理をしているのだろう??
稲垣さんは電気のなかった江戸時代の食生活を知るために、時代劇の食事シーンを参考にしたそうな(そこがすごい)。
結果、基本は毎日「メシ、汁、漬け物」となった。
なんて地味でつまらないのだろうと思いました?
こんなくだりを読んでみると、どんな味か試したくなりませんか?
「そうご飯って、甘いのだ。実に。
でもそれは、ケーキのようななにはせずとも先方から「ほら甘いよ、甘いよ」と分かりやすく迫ってくる甘さなんかじゃない。
そうじゃなくって、こっちから取りに行かなきゃわからない甘さである。
暗い洞窟に放り込まれ、何があるのか注意深く手探りで奥へ奥へと少しずつ進み、そこにひっそりと佇む甘さにようやく気づくのだ。」
「時代劇をよく見ればわかります。どんな貧乏人でも、食事の時間は実に幸せそうで、さらによく見るとその幸せは、味噌汁を飲んだ時にピークに達するのがわかります。
味噌汁をずーっとすすった瞬間、誰もが表情をふわっと和らげる。いやホント。」
地味に見えるけど、とても豊かで、稲垣さんが食事が楽しみでしょうがない感じが伝わってくる。
稲垣さん曰く、「美味しいものは飽きる」らしい。
確かにおいしい味噌汁はそれだけでごちそうになるし、全っ然飽きない
(詳しくは「失われた味を求めて─「ルネサンスごはん」のこと - Hitorikaigi Journal」
を)。
そう考えると、外食ってのは不自由なものだ。
例えば、居酒屋の宴会コース。これでもかというほどお皿が運ばれてくる。
最初に腹持ちのいい単価の安そうなものが来るので、最後の方のメインディッシュやごはんはいつも食べれなくなってしまう。
(最後のデザートはきっちり食べますが)。
同様のことが、旅館の豪華な夜ごはんにも言える。
お腹がパンパンで味のことなんてなにも覚えていない。
特別なときに関わらず、外食したとき、
「定食のこのおかずはいらないから値段安くしてほしい」とか
「このおかずは食べたいけど、この半分でいいんだよなあ」とか
「今日は胃がもたれているから、味は薄めにしてほしいなあ」とか思っていても、お店では対応することができない。
これってよく考えると不自由だよなあ。
稲垣さんがこの本で一番言いたいことはこんなことだ。
「自分の食べるものを自分で作る。それは、自由への扉だ。」
もちろん家族がつくってくれるご飯はおいしい。
食べたいものを外食するのもいい。
それになんとなく違和感を感じたとき、自分でつくれるという自由もあることを知っておくのはなんとも強いことだ。