産休に入って思うこと─欲しい本がそこにない問題
出産予定日からあと6週間となり、ようやく産休に入りました。
書店の仕事というのは、重いものを持つことが日常で、接客業なので、立ち仕事なのであります。
妊娠中とはいえ、業務内容が変わることもなく、日に日に大きくなるお腹(お腹がつっかえて段ボールの隙間が通れない)。
自分でもびっくりするほどの近すぎる体力の限界(あと尿意の限界も近い!)。
終わらず翌日に持ち越される仕事たち…。
歩くだけでもきついのに、よくがんばったと思う。
日常業務がきつくて、引き継ぎはろくにできませんでしたが…。
まあ、そんなことはすぐ忘れるから大丈夫!
ということで、社会人になって以来の長期休暇です。
でも本っっっ当にやることがない(笑)
寝ることと食べることが生きがいになっています。
1日のほとんどがソファと一体化しています。
考えてみると、1年以上も仕事をしなくてよいというのは、「ヤッター!!!」と思う反面、「怖い」ような気がするのはなぜでしょう。
きっと休み慣れていないんでしょうね。
残された自分だけの時間、1日のリズムを早くつくって楽しく過ごしたいと思います。
産休中に掃除や手芸などやりたいことを夢見ていますが、現実的には心ゆくまで読書をしたいです。
後悔しているのは、産休前に読みたい本を買いだめしておけばよかったこと。
いま、近所の書店に行っても読みたい本が全然ないことに絶望を感じています。
今までは、新刊の荷物を仕分けするときに欲しい本と出合える。
欲しい本がなければ、自分で発注できる。
これってすごいいい環境だったのだな、と。
今は、近所の書店に注文する勇気もなく、かといってamazonで注文というのも、書店員的に負けのような気がする。
ということで用事のついでに寄った青山ブックセンターでお買い物祭りとなってしまった。
カバンが重い……。でもいい本屋さんに行くとやはり楽しいな…!
水道管が凍結して気づいたこと
ちょっと前の話ですが、1月26日私が住んでいる東京・八王子では最低気温が-7.8℃を記録しました。
その日、お昼から出勤だったので、いつも通り遅めに起きて、トイレに入ると水が流れない。
「ん?? なんでハンドルがゆるゆるなんだろう??」
水道管が凍結してしまったことに気づくまで、寝ぼけていたせいか、しばらく時間がかかってしまいました。
幸い、非常用の水があったので(ペットボトル2Lが10本ほど)パニックということはありませんでした。
さて、その日家を出るまで、何Lの水を使ったのでしょう。
朝の食事や飲み水に1L、顔を洗ったり、歯みがきに1L。
つまりペッドボトル2Lを1本で充分だったのです(食器は洗わずに放置ですけど)。
一番困ったのはトイレでした。
朝、起き抜けのお小水が流れずにそのままになっています。
ネットで調べてみると、1回トイレの水を流すには、最低でも6Lの水が必要とあるではないですか!
貴重なミネラルウォーターを3本も使うわけにはいかないので、旦那さんには申し訳ないですが、放置してきました…(ちなみに1Lぐらいの水で流してみましたが全く効果なし)。
しかし、半日生活して、一番水を使うのがトイレだったとは意外。
例えば歯みがきだと、口をすすぐとき、水を出しっぱなしにするのではなく、コップの水で口をすすげば、水は少しで済みます。
一方、トイレや洗濯機などは便利ですが、どのくらいの水を使っているのかが目に見えないし、想像もつかないし、しかも加減もできないというのは、恐ろしいことでもあるなと思いました。
その日の夕方には水が出るようになったようなので、断水はほんの短い時間でした。
今年の東京の積雪にも驚きましたが、水道管が凍結するなんて今まで想像したこともありませんでした。
蛇口をひねれば水が出るという当たり前のことが、本当は(世界的にみても)当たり前ではなかったのです。
水のありがたさをひしひしと感じると同時に、トイレの水を流すのに6Lも水を使う必要があるのかと疑問に思いました。
いま、『ぼくはお金を使わずに生きることにした』のマーク・ボイルさんの新刊、『無銭経済宣言』を読んでいます。
前作のようなノンフィクションではないので内容がかなり難しい…。
後半は実際にカネなしで生活するためのノウハウが載っていて、実践できるほどの技術も心構えもまだないけれど、いつかはオフグリッド(電線が通っていない家)で生活したいと夢をふくらませています。
本書からトイレの章を引用します。
水洗トイレは、現行の文化と思考回路に見られる病んだ精神のいっさいを象徴している。命を与えてくれる液体(水のことですね*引用者註)のなかに大小便をしてだいなしにしているのだから。
この章を読んだときは「そうなのかな?」という感じだったけど、今なら現実味を持って「そうかもしれない!」と思える。
近藤聡乃さん『ニューヨークで考え中』、2巻になってもやっぱり考え中…。
出たあ!
好きすぎてwebの連載(亜紀書房 ウェブマガジン「あき地」)は一切見ずに、単行本の発売を待ち続けていたら、3年も経っていたらしい。
近藤聡乃さん『ニューヨークで考え中』の新刊どえす!
3年の間、恋人だったアメリカ人と結婚して、引っ越して、義理の娘が大学生になったりと大きな変化があるものの。
基本的には1巻と同じく日常の体験やそれについて思ったことなど、つまりとても些細な話(本人曰く『「だからなんだ」という話』)が多い。
だけどこれが絶妙におもしろいのだな。
舞台がニューヨークというのもあるだろうけど、おそらく近藤さんが日本に住んでいたとしてもおもしろいと思う。
それは1巻ではあまり感じなかったけど題名にもある「考え中」がこの本のキーワードなんじゃないか。
「移動の途中で」という回の言葉を引用してみる。
移動中の考え事は連想ゲームのようである。
子供のころのお正月のこと 一年前のこと(略)
そしていつの間にか 来月描くマンガのネームのこと 来年作るアニメーションのこと 死ぬまでにあとどのくらい作品を作れるのか?
そんなことをぼんやり考えている。
……そういえば昔から考え事は移動中にしていたな
……日本から飛行機で十三時間か
私は移動中の気分でここに住んでいるのかもしれない
街を歩きながら、電車に乗りながら、近藤さんはいつも何か考えている。
私もよく寝る前にぼんやりと考え事をするが、すぐに何を考えていたのか忘れてしまう。
この本はそんな現れては消えていく考え事を見事に紙の上に定着させてしまっている。
家族や友人に囲まれていても、考え事は一人でしかできないのだ。
内容は人によってはつまらないかもしれないけれど、繊細で貴重な作品だと思う。
2018年に読みたいブックリスト
あけましておめでとうございます。
妊婦ぶりが佳境に入ってきまして、なかなかブログが書けない(というか本が読めない)状態になっております。
そのうえ、自給自足したいとか都市生活から抜け出したいとか考えるようになり、その手の本ばかりに目が向いて、書店のベストセラーなんかには目もくれなくなってしまいました…。
で、今年の目標ですが、
ただいま愛用しているマーマーブックスの『わたしの手帖』です。
こちらには取り外しのできる「付録編」が入っておりまして、「わたしと出合うためのブックガイド」が掲載されています。
「ホリスティックな知恵を深める本」から「恋愛、結婚、パートナーのことで悩んだら」や「都市脱出のすすめ」など100冊以上紹介されています。
実際に服部みれいさんが選んだであろう、そのリストは見ただけでワクワクしますね。
どれもおもしろそうなので、今年はリストに載っている本を片っ端から読んでやろうと思っています。
そしてまずは「都市脱出のすすめ」に載っていた『ぼくはお金を使わずにいきることにした』を読んでいます。
これ、まだ途中ですがめちゃくちゃおもしろいです。
なぜ著者が「1年間お金を使わずに生活する」ことをはじめたかというと、なにも話題になりたいとか、そういうのではなく。
「…お金という概念全体が、不平等や環境破壊や人間性軽視を助長するようなシステムを下敷きにしている」
というのです。
ニュースでは「バブル期ぐらい景気がよい」なんて言っていますが、全く実感がわかないばかりか格差はどんどん広がっている実感があります。
好景気という割には国の借金は増え続けているし、経済は拡大しているように見えて、実際は無駄なものをつくっては、捨て、いたずらに地球環境を破壊しているだけなように思えます。
この(破滅に向かうしかない)空虚なゲームにおいて賢明なのは「ゲームから降りる」ことなのかなって思います。
その道のりはかなり困難でしょうが、様々な本から、先人の知恵から実践していきたいと思う2018年初頭なのでした。
自分が食べたいものを食べる自由─稲垣えみ子『もうレシピ本はいらない』
前回に引き続き、またレシピ本になってしまった。
どうやら私は「昔の味」が知りたくてしょうがないらしい。
稲垣えみ子さん、都会にいながらにして電気を全く使わない生活をしている。
電気がないということは、必然的に冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器などが使えないということだ。
一体どうやって料理をしているのだろう??
稲垣さんは電気のなかった江戸時代の食生活を知るために、時代劇の食事シーンを参考にしたそうな(そこがすごい)。
結果、基本は毎日「メシ、汁、漬け物」となった。
なんて地味でつまらないのだろうと思いました?
こんなくだりを読んでみると、どんな味か試したくなりませんか?
「そうご飯って、甘いのだ。実に。
でもそれは、ケーキのようななにはせずとも先方から「ほら甘いよ、甘いよ」と分かりやすく迫ってくる甘さなんかじゃない。
そうじゃなくって、こっちから取りに行かなきゃわからない甘さである。
暗い洞窟に放り込まれ、何があるのか注意深く手探りで奥へ奥へと少しずつ進み、そこにひっそりと佇む甘さにようやく気づくのだ。」
「時代劇をよく見ればわかります。どんな貧乏人でも、食事の時間は実に幸せそうで、さらによく見るとその幸せは、味噌汁を飲んだ時にピークに達するのがわかります。
味噌汁をずーっとすすった瞬間、誰もが表情をふわっと和らげる。いやホント。」
地味に見えるけど、とても豊かで、稲垣さんが食事が楽しみでしょうがない感じが伝わってくる。
稲垣さん曰く、「美味しいものは飽きる」らしい。
確かにおいしい味噌汁はそれだけでごちそうになるし、全っ然飽きない
(詳しくは「失われた味を求めて─「ルネサンスごはん」のこと - Hitorikaigi Journal」
を)。
そう考えると、外食ってのは不自由なものだ。
例えば、居酒屋の宴会コース。これでもかというほどお皿が運ばれてくる。
最初に腹持ちのいい単価の安そうなものが来るので、最後の方のメインディッシュやごはんはいつも食べれなくなってしまう。
(最後のデザートはきっちり食べますが)。
同様のことが、旅館の豪華な夜ごはんにも言える。
お腹がパンパンで味のことなんてなにも覚えていない。
特別なときに関わらず、外食したとき、
「定食のこのおかずはいらないから値段安くしてほしい」とか
「このおかずは食べたいけど、この半分でいいんだよなあ」とか
「今日は胃がもたれているから、味は薄めにしてほしいなあ」とか思っていても、お店では対応することができない。
これってよく考えると不自由だよなあ。
稲垣さんがこの本で一番言いたいことはこんなことだ。
「自分の食べるものを自分で作る。それは、自由への扉だ。」
もちろん家族がつくってくれるご飯はおいしい。
食べたいものを外食するのもいい。
それになんとなく違和感を感じたとき、自分でつくれるという自由もあることを知っておくのはなんとも強いことだ。
失われた味を求めて─「ルネサンスごはん」のこと
最近、料理が趣味ですと言っていいほどだと思う。
つくっているのはもっぱら「ルネサンスごはん」だ。
パティシエの弓田亨さんが日本の家庭料理に危機感を覚え、
「日本の食が健全であった子供の頃の母の味わい」を再現した料理法が「ごはんとおかずのルネサンス」である。
「ごはんとおかずのルネサンス」でベースになるのは、いりこや昆布、切干大根、大豆、油揚げなど昔から日本で食べられている食材。
それに現代では失われた栄養素や味わいを補うため、アーモンドやオリーブオイル、腐乳などを組み合わせて、現代風にしている。
今の家庭料理では難しい「灰汁抜きや下茹はしない」や「砂糖・みりんは使わない」「電子レンジ・圧力鍋を使わない」という考え方である。
しかしただの味噌汁にしても、やたらとうまい。味が深い。
「ああ、おいしいなあ…」としみじみしてしまう。
こうなるともう外食ができなくなる。
「ごはんとおかずのルネサンス」、こんなにおいしいのになぜ人々に受け入れられないかというと、とにかく面倒くさい。
だしを前もってとらないと何も始まらない。
豆を使うときは前日から水につけておかないといけない。
普通に「ふつふつと15分煮る」とかある。
あと、使う食材の種類が多すぎる。
でもこの「面倒力」を越えるほどのおいしさがルネサンスごはんにはある。
料理をしている時間が無駄だとか、苦に思わないのが不思議だ。
白菜のサラダ
まだルネサンスごはんをつくり始めて日は浅いが、体に変化といえば。
(汚い話で恐縮だが)、便が変わりましたね。
今までは下痢気味で軟便だったのが、きれいな「一本糞」になりました!(何の話だよ…)
本によると、アトピー性皮膚炎が治ったり、不妊症など様々な病が改善されているよう。
続ければどんな変化があるか楽しみです!
レシピ本のリード文がいちいち食欲をそそられるので、つくってみようかという気になる。
ちょっと長いが一部を紹介します。
かき揚げ
「これがほんとうの”おっかさんの天ぷら”です。
プロが作る、生っちょろい軽い歯ざわりの衣の天ぷらなんて少しも嬉しくありません。
いろんなものが口中にガヤガヤとあふれる、これが日本の天ぷらの原点なんです」
プレーンオムレツ
「これに何でも好みのままに加えて、楽しいオムレツを作ってください。
ポックリ、フックラ。心と身体に元気が湧いてくる、そんでもなくおいしいオムレツです。
でも子供の頃の味わいの記憶では、昔は何も加えなくても卵だけでこんな豊かな味わいでした。」
ある日のお弁当。インスタ映えはしない
いま、日本でつくられている農作物は約50年前のものに比べると、栄養素が1/3~1/2に減少しているそうだ。
だからいくら日本の安全な食材を使って料理をしても、昔の味を再現したことにはならない。
レシピを読むだけでもおもしろいのは、想像力が掻き立てられるからだ。
昔の味ってどんなにおいしかったのだろう。
食べたことがないし、これからも永遠に食べることはできない。
もう失ってしまった味だから、想像するしかないのだ。
HYGGE(ヒュッゲ)が今ブームらしい─日本的ヒュッゲはこたつにミカン?
ヒュッゲという言葉がいまブームらしい。
最近ヒュッゲの本が新刊でたくさん出ています。
前からブームの「北欧の上質な暮らし」の本だと思ったらビジネス書のところにも置いてあって、ちょっと違うみたい。
ところで、デンマークといえば世界幸福度ランキングで常に上位の国。
デンマークは税金は高いけれど、教育費も医療費も無料という福祉国家。
その安心感が幸福につながっているのだろうが、なぜデンマークの人はこんなにも幸せなのかというと、それは「ヒュッゲ」が鍵らしい。
ヒュッゲとはデンマーク語で「居心地のよさ・温かみ・一体感」などを表す。
デンマークの人は「なんてヒュッゲなカフェなんでしょう!」とか「これ以上ヒュッゲなことがあるかしら?」とか会話にやたらヒュッゲヒュッゲ言うらしい。
今回の課題図書『ヒュッゲ 365日「シンプルな幸せ」のつくり方』によると、ヒュッゲっぽいアイテムといえば、暖炉、キャンドル、本、クッション、上質なお菓子なんだそうだ。
今日は寒い夜、照明はキャンドルのみで、暖炉の薪のパチパチという音だけが聞こえるなか、コーヒーと甘いお菓子を食べながら、家族団らんのときを過ごす。
こんな感じがデンマーク人にとって最高にヒュッゲであり、一番に大切にしたい瞬間なのだろう。
オシャレな北欧っぽくて素敵。憧れます。
だからといって日本でデンマーク流にヒュッゲを楽しめるだろうか。
だいたい家に暖炉ないし。
じゃあ日本的なヒュッゲって何だろうと考えれば、例えばこたつでミカン、縁側でお昼寝、銭湯とか?
あとテレビの「秘密のケンミンSHOW」では、地方のお宅にカメラが訪問すると、だいたい大人数の親戚が集まっていて、大皿でおいしい食べものを食べている。
あの老若男女でワイワイ食べる感じ、あれもヒュッゲではないだろうか。
う~ん、なんか古き良き日本って感じだけど。
とにかくヒュッゲとは雰囲気的な言葉だから、自分が心地よい瞬間を探すことなんだ。
お金よりも、仕事よりも、家族やヒュッゲを大切にするということ。
何かを購入するとき、価格やブランド、みんなが買っているからという理由で決めずに、一番自分にとって「ヒュッゲ」なのはどれかで選ぶのがいいと思う。
私もデンマーク人のようにヒュッゲヒュッゲと言っていきたいな。